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2023年9月24日 (日)

古都鎌倉の事件現場めぐり

古都鎌倉は歴史ファン耽溺の事件現場だらけである。手始めに鮮血の6か所をめぐりたい。


①鶴岡八幡宮の大石段(雪ノ下2‐1‐31):1219年1月27日(新暦2月13日)第3代源実朝暗殺
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崖に石段のある景色は鎌倉の原風景かもしれない                下から13段目あたり

雪が降るなか大銀杏の後ろに隠れてた公暁(頼家の次男)に下から数えて13段目あたりで斬首された、という伝説がある。伝説というか「隠れ銀杏」「13段目」は江戸時代の創作である。たぶん隠れられるほど事件当時は大木ではなかった。でも石段の上か下か不明だが殺されたのはきっと本当である。

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自祓い所の奥が残った親銀杏の根元、櫓奥が成長中の子銀杏            石段の上から舞殿越しのながめ

2010年3月に倒れたご神木は高さ30m、周囲6.8m、樹齢1000年超とも言われ神奈川県天然記念物だった。現在倒れた大木の一部は鎌倉文華館鶴岡ミュージアムのカフェ内に展示されてるそうだ。

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十六葉八重表菊紋の提灯にワカメ……! かわい♡               神紋の鶴丸紋

神饌の海菜(ワカメや昆布)が三方にのせられてるのは見おぼえあるけど、こんなふうに高張り提灯に1つずつ供えてるの初めて気がついた。ここだけ独特なのかおれが鈍かっただけだろうか。菊紋ということは参拝客の足元のためではなく祭神・第15代応神天皇≒八幡神のための道しるべである。お盆の門提灯のカテゴリーと認識してる。第10代崇神天皇から実在性が高いと言われてるので応神天皇も実在はしたんじゃないかな。ただ八幡神と同一視されるようになったのは後代とも。弓術の達人だったという伝説はあるが何故。八幡神はあまり輪郭がはっきりしない神様だが日本で最多7817社、2位は天照大神を祀る伊勢信仰系4425社、稲荷神社は主祭神2970社だが境内社も加えると軽く3万社超え。キツネ圧勝🦊 ここは神功皇后、比売神あわせて3柱が祀られてる。


②若宮大路幕府旧跡(雪ノ下1‐11):1236年第4代藤原頼経から第9代守邦親王の幕府滅亡までの将軍御所
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石碑がワカメかぶってるみたいでかわい♡                  路地入るだけで無人

源頼朝の自宅兼職場だったと考えられる1180年大倉幕府→1225年宇津宮辻子幕府→1236年若宮大路幕府→1333年新田軍鎌倉攻めによる鎌倉幕府滅亡まで。ピンポイントで事件現場というよりは、1213年和田合戦、1247年宝治合戦、1285年霜月騒動などの鎌倉市街戦が偲ばれる。


③北条高時腹切りやぐら(小町3‐11‐38):1333年5月22日(新暦7月4日)北条高時ら幕府方800人超自刃
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祇園山ハイキングコースの入口すぐ                 落石で立ち入り禁止

案内板に書いてあったので落石で入れないの知ってたけど、落石してなくても入れなかったかも。予想以上のガッサリもっさりであった。ハチ注意の張り紙もあるし。ここは心霊スポットとして有名らしく「わたし霊感強いから近づけない」とか言うひとが出るらしい。だいじょうぶ、ウソである。鎌倉・京都でメシ食えるやつに霊感なんかねえ。せっかくなのでもう1度言おう。鎌倉・京都で平気でメシ食えるやつは霊感ゼロ!
いま必要なのは勘違い霊媒師などではなく、登山靴と長袖長ズボンに虫除けスプレーなり。次回は装備して訪れたい。

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真昼でも薄暗さがすごい                   そういうわけでご近所迷惑の肝試しはやめれ

鎌倉幕府最後の執権となった第16代北条守時(赤橋守時、足利尊氏の義兄、在職1326~1333年)はここではなく、遡って5月18日新田軍との洲崎合戦で討ち死に、もしくは90人超で自刃したと伝わる。新田義貞軍に殺された武士たちと考えられる刀傷のある人骨は1953年以降由比ヶ浜~材木座から大量に出土した。そこらじゅう首だらけなり。


④鎌倉宮神苑(二階堂154):1335年7月23日(8月12日)大塔宮護良親王半年超土牢幽閉後暗殺
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白い鳥居                                 明治2年明治天皇勅命により創建

300m以上手前の岐れ道交差点から白い鳥居らしきものが見えるけどアレだろうか、と直進したらソレだった。ご祭神としての呼称は大塔宮護良親王だ。
HPには「足利尊氏の陰謀によって鎌倉二階堂に幽閉の御身となり」とあったけど、後醍醐帝以外にいないだろうと思ってる。孝明天皇の願いにより明治天皇が明治元年に第75代崇徳天皇(讃岐院、日本三大怨霊とも)を祀る白峯神宮を建てたのは「天皇が謀殺した天皇(上皇)」による祟りを畏れたからであって、別に明治天皇が上田秋成の『雨月物語』ファンだったわけでもないだろう。さらに第47代淳仁天皇(淡路の廃帝)も祀ったわけである。そして明治2年にココを創建したのは「天皇が謀殺した親王(天皇になるところだった)」を特に悼んで(畏れて)のことじゃないのか。明治天皇ご創建がかえって後醍醐帝による暗殺の意思を思わせる皮肉。

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広い、きれい、静か(だれもいない)……さいこうだ            酷暑で弱ってるぽい梅の古木

御手植えの梅「征夷大将軍護良親王の弟宮にあたる征西大将軍懐良親王御手植えの梅から実生したもので、九州八代から移植した」とあった。護良親王のほうが悲劇の皇子として有名だけど、懐良親王も十二分に苦労人である。わずか7、8歳で九州へ渡ったのである。ここ鎌倉で所縁のある梅に会えるとは嬉しい。

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爽やかな風が通る立派だが質素な社殿

向かって右側に1333年元弘の変における吉野山の戦いで親王の身代わりになって自刃した忠臣村上義光を祀った村上社、エリアは神苑内になるが向かって左側に幽閉時にも随行し斬首された首を持って山梨まで逃れたとも言われる愛妾南御方を祀った南方社が並ぶ。心尽くしな配置だ。社務所側から入れる奥の神苑(有料)に土牢がある。神苑は徳仁天皇のご成婚記念に造園したとあった。
1335年中先代の乱勃発時に、土牢の前で足利直義の命を受けた家臣淵辺義博(現在の相模原市淵野辺本町の境川段丘上に居館跡が伝わる)が斬首したとされる。しかし大塔宮「武家よりも君の恨めしく渡らせ給ふ」と言い残したという話もある。わずか二十歳で天台座主(宗教界トップ)・征夷大将軍(軍事トップ)、あと天皇践祚(行政トップ?)でフルコンプリートだと考えてたのだとしたら、理想主義の鬼である後醍醐帝は暗殺命令ぐらい出すよな、と思う(征夷大将軍解任して出家命令は出したが、処刑命令は出してない)。第60代醍醐天皇の時代の天皇親政を理想とするから第96代にして後醍醐を名乗ったわけである(2024年追記:注※自ら遺詔によって「後醍醐院」と追号したのであって、他天皇どうよう生前にお名前はないよ☆)。第72代白河院政ではダメなのだ。醍醐帝は清涼殿に落雷直撃して3ヵ月後に亡くなった例の方なんだが。ここ東光寺跡は足利邸の裏山と呼べる位置にある。すぐ殺害せず結果的に9ヵ月も幽閉した理由は陰謀ではなく困ってたんじゃ。足利兄弟のエピソードは直情径行スタイルで興味深い。当時「枯淡の美」が流行だったとはいえ、尊氏が詠んだ歌の寂寥感は抜群である。後醍醐帝もたかが阿野廉子に讒訴されたぐらいで盲目的に従うほどアホの子じゃないでしょう。
まあ、ぜんいんとっくの650年以上前にかくりよの住人になってるからいいんだけどさ。


⑤護良親王墓(二階堂748):理智光寺跡地
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やっぱり崖に石段                               お花が供えてあった

鎌倉宮から二階堂川を渡って黒塀のホテルの先に静かに保護されてた。住宅地の上に覆いかぶさるように崖地があったりして、多摩三浦丘陵を構成する地域だもんな、と思った。さっき首を持って山梨県まで逃げたと書いたけど、ここに理智光寺住職と南御方が遺体を埋葬したという話もある。

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2019年の台風によるがけ崩れで立ち入り禁止                蝶が3羽ずっと舞ってた

宮内庁の入札情報に落札記録があったので8月ちゅうに工事終わってそろそろ参拝できるかも、と期待して行ってみたけどまだでした。ご遥拝をすすめられた。日差しの強さと木陰の暗さがまぶしい景色と静けさがよかった。蚊に食われるのも気にせず(後でかゆかった)ながめてたら、クロアゲハとアサギマダラもしくはアカボシゴマダラ(特定外来生物のほう)とルリシジミらしき蝶がひらひらきれいだった。蝶は死者の化身あるいは現世のものではないと信じられてきた夢虫である。
万葉集4540首のうち蝶を詠んだ歌は1首も収録されていないらしい。歌人たちが詠むことそのものを忌避または禁じられてたのか単純に収録するわけにはいかなかったのか。ナミアゲハの幼虫を「常世虫」と呼び常世神として祀る新興宗教を奈良時代の朝廷がつぶしたことも関係あるかもしれない。
それにしても鎌倉住民の方々に予想以上に大塔宮がだいじにされてる気がしてよかった。


⑥足利公方邸旧跡(浄明寺4‐2‐25):足利義兼(1154頃~1199年、源頼朝の従兄弟)以来足利家が250年以上(室町時代以降は鎌倉公方)居住した館跡
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石碑が建てられてるだけである                      碑からの振り返った眺め

足利義兼による浄妙寺(アフタヌーンティーが食べられる!)と足利家時(尊氏の祖父)による足利&上杉の菩提寺・報国寺(竹林が大人気!)を通過した宅地の隅に建てられてる。ここあたり突然降ってわいたように観光客がたくさんいた。足利テーマパークと言っていい。石碑前にはおれしかいないけど。
当地で血まみれの事件が起きたわけじゃないけど、1349~1352年観応の擾乱、さらに1438年永享の乱あたりはここに端を発してる。

関幸彦先生が足利尊氏直義兄弟について書いてたことを思い出す。
「室町幕府初代将軍の尊氏と、その1歳下の弟、直義。幕府成立期のいわば社長と副社長だ。この二人を組み合わせたのは、人為的な『人事』ではない。しかしそれだけに、また兄弟ということを考えればなおさら、これほど性格・資質の対照的な二人を並べて歴史の重大局面を担わせた天の配剤には感心するしかない。」


遠山美都男・山本博文・関幸彦『人事の日本史』2005年

兄弟に加えて、「すべて朕のものだ」と願った後醍醐と「なにも欲しくない」と願った尊氏が京都と鎌倉にいたキャスティングはドラマティックだけど「天」と呼ばれる者の性格の悪さを感じる。
石碑をながめてたらトンビの甲高い地鳴きが聞こえた。木が多いせいかカラス多いと感じてたけど、あの海岸で観光客のランチをかっぱらってるトンビ集団の塒このあたりなのか。鳥フンたいへんそうだな……。


まとめ:歴史と崖と観光客と鳥と虫に圧迫されてなお死者に優しい古都

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鎌倉にオフシーズンなさそう

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